頭の栄養2

・結婚適齢期と子育て

 

世の中の通説では、

 

20代半ばから30代半ばぐらいまでが結婚適齢期と言われます。

 

モノが溢れて精神が薄れている現代社会で、

 

その適齢期は早すぎると思います。

 

江戸時代と今では、精神年齢が全く違います。

 

モノが無い時代の人達は、良くも悪くも、

 

モノが無いから想像力を働かせることで実年齢より精神年齢がはるかに高かったのです。

 

物質に溺れるとその逆になります。

 

これではいけないと自己啓発して生きている人は別ですが、

 

ただ何となく世の中の流れに沿って何も考えない人は、時代の風潮の波に泳がされています。

 

こんな混沌とした世の中だからこそ、

 

それぞれの意識を革命するときが来たのではないでしょうか?

 

現代社会で、離婚が多いのは、

 

お互いに精神年齢が低いのに勢いとタイミングで結婚するから、

 

というのも理由の一つだと思います。

 

良い面は離婚に対する世の中の偏見がなくなったことです。

 

今の60代以上の人達は、

 

子供の為に我慢して結婚生活を営んできた人たちが多くいます。

 

時代の風潮と言えばそれまでですが、

 

それで済ませてしまえば人間の意思はいらないことになります。

 

現在の物質化社会であれば、

 

精神年齢が確立されるのは40代以降で、

 

精神的に見ればそこからが結婚適齢期ですが、

 

特に女性の生殖機能が衰退するので、

 

それでは子孫反映が難しくなります。

 

ですが、一般的にみて、女性の方が精神年齢が高いので、

 

女性は30代半ば、男性は40代以降で結婚するのがベストではないでしょうか? 

 

これはあくまでも一般論なので、全てに当てはまるわけではありません。

 

が、この一般論を知っていれば、多少なりとも結局は子供の為になります。

 

最初から子供を産む気がないなら、

 

一生恋愛で自由にすればいいと思います。

 

自由な世の中になったのですから。

 

私が一番言いたいのは、結婚の適齢期はいつ?ということよりも、

 

子供を育てる気があって結婚するのなら、

 

勢いとタイミングだけではなく、

 

覚悟が必要だということです。

 

親の都合で不幸せな子供の姿をみると、

 

心が痛いです。

 

生まれてくる子供に罪はないのです。

 

理想の夫婦像や円満な家庭という手本を見せられない親が、

 

子育てをしてよいのでしょうか。

 

それなら最初から独身を貫いて破天荒に生きるか、

 

自由に過ごすパートナーと穏やかに過ごせばいいと思います。

 

子供への虐待が多い時代だからこそ、

 

そう強く願います。

 

 

 

 

・学問の関係

 

数学の問題文は国語の要素です。

 

因数分解のアルファベットは英語です。

 

集合の問題は社会でいうところの社会構図のモデルです。

 

数学の統計学も社会に関係があります。

 

理科に至っては科学の方程式です。

 

学問は全てつながっています。

 

 

 

 

・教育のあり方

 

やたら自分の子供に英才教育を施そうとしている方。

 

考えてみてください。自分が物心つき始めた子供の頃、

 

楽しく遊んでいたおもちゃを取り上げられたとき、どう思いましたか?

 

無理強いされると、大人だけでなく子供も嫌な気持ちになるものです。

 

子供にやる気があれば、自分で志願して私立中に行きたいと言ったり、

 

その気持ちが雰囲気で伝わってきたりするはずです。

 

成功する人達は環境のせいにはしません。

 

与えられた環境の中でベストを尽くし、

 

次のステージへとステップアップしながら高みを望むものです。

 

がむしゃらにとことんやって、

 

それを継続するうちに、

 

気づいたら成長していたということではないでしょうか。

 

そして、積み重ねてきた努力の結晶を人のために使えるようになるといいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 経済と宇宙.png

 

・宇宙と現代世界経済社会の構造

 

人はモノを作ってカネを生み出し、カネで物を買い生活します。

 

この一連の流れが経済です。お「経」の「済」んだ情勢。

 

それが経済ですが、現代は物質文明と精神文化の融合の過渡期にあり、

 

混沌としています。

 

そんな混沌としている世の中だからこそ、

 

経済という枠を超えてメカニズム(上図)を知り、

 

人々は意識を高め、世の中を革命して、新世界を構築していかなければなりません。

 

そもそも形ある物質は寿命があり、存在は有限です。

 

しかし、人間の発想力のような形のないものは永遠で無限です。

 

有言から無限は生み出せませんが、

 

無限から有限を生み出すことが宇宙の真理です。

 

すなわち、今ある物質文明を情報という基盤をもとに、

 

人間の精神という発想を用いて、

 

世界を創造していくことが必要です。

 

新しい発想を自由自在に次から次へと生み出すためには、

 

悟りが必要です。

 

悟りを開くための具体的な方法は分かりませんが、

 

肉体と精神を極限まで鍛えてから自我を追いつめて、

 

究極の負の境地に至ります。

 

そのときに差し込む一筋の光をつかんだとき、

 

悟りが開かれます。

 

しかし、危惧することは、鍛え方が足りないと廃人になり、

 

成功しても精神疾患として後遺症が残ることです。

 

選ばれし者が鍛えぬいた末に、

 

到達できる世界でしょう。

 

現在日本の経済は、

 

デフレのスパイラルに陥っています。

 

逆にバブル以前の経済は、

 

インフレの状態が長く続きました。

 

デフレもインフレもメリット・デメリットあるので、

 

バランスのとれた安定した経済が重要だと思います。

 

その調整をするのが、人間の発想というアイデアです。

 

デフレというのは、人・モノ・金の流れが著しく低い状態

 

(※電気で例えると電流、すなわち経済でいうと、会社間の取引・金額の大きさ)です。

 

そして、マニュアルもモノです。

 

人を縛るものではなく、

 

人を効率的・合理的に導くモノ・統制のためのツールであり、

 

また、人を動かすものではなく使われるモノという意味です。

 

 

 

 

・生産人口減少問題の解決

 

政策の考え方として、枠を決めてからの中身では本末転倒です。

 

中身を決めてから政策を固め、法律という枠内に収めることが重要だと思います。

 

生産人口減少の課題を乗り越えるためには、

 

例えば政府は工場のライン作業を単純作業と認識して軽視してはいけません。

 

企業は生産性を上げる手法を作り上げ、

 

政府が奨励金として金銭面でのサポートをすることが必要だと思います。

 

100人でやる作業を90人でやる方法を導き出せば、

 

単純に10人分の生産性が上がります。

 

そうすればコストカット、最終的には利潤の増大、

 

社会経済の安定にもつながります。

 

他の手法としては、ロボットやAI活用によるマンパワー補てん、

 

外国人労働者の受け入れ緩和などです。

 

そこに、予算を投入、経過を見ながら追加案を盛り込んでいきます。

 

政治家の方々は現実に目を向け、実際目の前にある問題を解決してほしいです。

 

理想追求という美辞麗句や大義名分は宗教家にお願いしたいです。

 

 

 

 

・出生率減少の問題解決

 

政府は出生率減少の対策として、

 

経済援助、学資援助、待機児童解消という表面上のことだけではなく、

 

そもそも「子を産む・育てるとは?」

 

という倫理的な部分の教育が必要なのではないでしょうか。

 

なぜ人は親になり子を育て、

 

そのまた子へと命をバトンタッチしていくのか、

 

という根本的な意識改革をしてほしいです。

 

現在の政府の政策では心に響いてないので、

 

子を産む動機にもなりませんし、

 

育てるモチベーションの維持にもつながりません。

 

自分の分身、愛おしく慈しむのが我が子。

 

自分だけではなく周囲をも明るく照らし、

 

心豊かにする存在、それが子供たち。

 

未来への希望。

 

子を産むとは義務ではなく、権利です。

 

本来、子を育てるとは、自分も初めて人の親となり、

 

愛情が芽生え子供と共に成長していくということです。

 

苦楽を共にして愛情が育ち、満ちていくことで情愛となります。

 

その過程の自分や、我が子が生き抜いてきたという事実は、永遠に色あせない証です。

 

お金や財産、社会的地位を歴史に刻んでも、

 

本当の意味での社会の徳ではありません。

 

子育てによって満ち溢れ、

 

有り余った愛が世界に拡散して平和な世の中になればと思います。

 

憎しみからは憎しみしか生まれません。

 

愛ゆえの憎しみというのもありますが、

 

愛したことは事実であり、

 

愛ゆえの憎しみを越えた先にある、

 

愛ゆえに愛でしかないという気持ちを持って、

 

子育てをしてほしいです。

 

 

 

 

・いじめと犯罪について

 

私はいじめたこともいじめられたこともあるので、

 

どちら側の気持ちも分かります。

 

大人の世界にもいじめがあのに、

 

子供の世界だけにスポットを当ててあれこれ議論するのはどう考えてもおかしいです。

 

100%とまでは言いませんが、

 

まず大人の世界のいじめを無くしていかなければ示しがつきません。

 

大人の世界のいじめ解決の糸口を確立していくことが先決ですしょう。

 

確かに、いじめる側がいなければいじめは存在しません。

 

ただ詐欺と一緒で、だます方も悪いし、だまされる方も悪いのです。

 

残念ながら、悪意を持った人間というのはどこにでもいるものです。

 

話せばわかるという奇麗事に酔ってばかりいても前には進みません。

 

また、当てはまらないケースもありますが、

 

いじめられる側にも原因はあります。

 

うそぶく、落とし入れる、悪口を言う、人を物のように利用する、

 

人の粗さがしをする、輪を乱し逸脱した行動を取る、などです。

 

このように、嫌われる要素があって、

 

仲間外れが始まり、エスカレートしていじめを受けるということもあります。

 

しかし、理由もなく、快楽で人をいじめるような人間は、

 

集団社会から排除するしかありません。

 

大人の世界のいじめにしろ、子供の世界のいじめにしろ、

 

100%なくそうと思ったら皆、聖人君子か感情を抜いたロボット人間になるしかありません。

 

いじめは人間が成長過程を経て進歩するための神様からの課題だと思います。

 

いじめの根本的な要因は、人間の考え方の違いや未熟さなど、心と心の摩擦です。

 

なぞらえて言えば、国家間の貿易摩擦もいじめの一種です。

 

いじめ問題解決のためには、

 

子供のうちからいじめ問題を教育に組み込んで、常に問題意識を持ち、

 

一人ひとりが善悪の基準を持って生きていかなければなりません。

 

それがいじめ問題解決の第一歩です。

 

いじめは隠れて行われるため、程度が周りに分かりにくく、

 

放置されることでなおさらおおごとになるのです。

 

ひどくなってからはもうどうにもならないのです。

 

いじめるいじめられるという関係性は、

 

放っておいて良くなることはほとんどありません。

 

いじめる人は、感情のブレーキが利かなくなり、

 

やめられないのです。

 

そこで、教育や職場などのコミュニティに、

 

人間関係やコミュニケーションを円滑にする第三者を配置して目を光らせ、

 

仲裁に入るしかありません。

 

仲裁の仕方として、

 

表立って仲裁するとさらにいじめがエスカレートする場合があるので、

 

いじめられている人への相談支援や退避などの支援が必要です。

 

そもそも義務教育だからといって、

 

絶対に学校に行かなければならないということはないと思います。

 

どんな手立ても通じない場合は、

 

逃げるのも一つの手段です。

 

犯罪については、

 

悪いことをしたから罪人、

 

というのは結果論であり、

 

悪いことかどうかは誰がどう見てもする前に分かることです。

 

大事なのは未然に防ぐこと。

 

善人・悪人を見分けることも必要です。容易ではありませんが……。

 

哲学者ニーチェが「善悪の彼岸」と難しい言葉で説明していますが、

 

簡単に言うと筋の通った理屈が通じないのが悪人、通じるのが善人ということ。

 

例えば、悪いことをしても懲罰を受けて

 

反省・更生する人はもともと、理屈が通じる人ということです。

 

理屈が通じるか通じないかの線引きは難しいですが、

 

この人に何を言っても響かない、聞かない、行動を改めないと思ったら、

 

早い時点で関係に区切りをつけることです。

 

危険を感じたら、

 

警察や弁護士などに相談するのがいいでしょう。

 

また、いじめや犯罪をなくすための他の手法としては、

 

メディアのコメンテーターが正しく、

 

効果的な解決策を代弁するとか、

 

学校教育や企業の社員育成研修の一環として取り入れるとか、

 

大小問わず、コミュニティーに反映させるべきです。

 

話せばわかるという綺麗事も全く信じないわけではないですが、

 

実際問題、社会には理屈の通じない人が存在します。

 

そういう未熟で自分本位な人がいじめや犯罪を犯すのです。

 

いじめや犯罪の相談にのり、解決への方法を共に考える。

 

また、未然に防ぐための専門家の職業を新設してみてはどうでしょうか?

 

国家資格として、

 

各コミュニティ何人に対して、

 

何人配置する、

 

という法律を設定する。

 

その名資格名は「コミュニケ―ター」。

 

皆さんはどう思いますか?

 

 

 

 

・領土問題

 

領土問題は、双方の国家の長い歴史的経緯の上に起こっている問題でもあり、

 

国家間の一時的な外交だけで解決するものではなく、

 

もし解決したとしても後味の悪いものになると思います。

 

両国のどちらかに権利を譲り解決、という形は非常に難しいでしょう。

 

だからといって、野放しにして無統治国家にすると、秩序が乱れます。

 

そこで、私が考えるのは、全然関係のない国家に権利を譲り、

 

問題の両国の人々を自由に住ませてあげたらいいのではないか、ということです。

 

政治的側面から見ると、

 

領土問題というのは国家間の国益の問題というのが現状ですが、

 

それだけでなく個人の故郷にはせる思いをくみ取ってほしいです。

 

時間は刻々と過ぎ、見ているだけで心苦しくなります。

 

国家間では敵対していますが、メディアに誘導されているだけで、

 

個人間ではほとんど敵対していません。

 

個人間には国境は無いのです。

 

国家間の問題で個人に圧力をかけるのは間違っています。

 

確かに一人ひとりの意見をくみ取っていたら切りがありませんが、

 

総意をしっかり認知し、政治に生かすべきです。

 

国家とは、国家があっての人民ではなく、人民が共生しての国家です。

 

従って、人民の意思や感情を無視し、

 

汲み取らない政治や国家は、本当の意味では国家として成立していません。

 

人間の持つ愛とは、

 

国境・言語・文化・文明・風習・価値観・経済・思想・宗教を超越するものであり、

 

地球をひとつにするどころか、

 

宇宙をも包む、

 

温かで優しく和やかな平和・自由・平等を人々に与えてくれるものです。

 

 

 

 

・犯した罪と罪の浄化

 

私は、死んで罪を償うということに疑問を感じます。

 

死んだら罪が浄化されるのはおかしいです。

 

なぜなら、死ぬより生きることの方が辛いことだってあるからです。

 

私は持病で20年間、拷問のような地獄の日々を味わってきました。

 

死んで許しを請うぐらいなら、

 

自分の全生命力を使って、生きて社会に奉仕してほしいです。

 

人間が裁いて死刑にするぐらいなら、

 

寿命がくるまで人のために働いてほしいです。

 

それが正しい罪の浄化だと思います。

 

娯楽による借金も、借りたものを返さないのも小さな罪です。

 

借りたものはしっかり返すという社会的責任があります。

 

逃げたら、必ず後でツケが回ってきます。

 

誰がどうみても恥ずかしくない、

 

負い目の無い真面目な生き方をしてほしいです。

 

天は清く高らかに生きている人間のことを見放さない、

 

と私は信じています。

 

 

 

 

・世界平和

 

中国は国土が広く人口も多いため、一人の指導者による統治では、

 

国民の自由が奪われ、国が乱れてしまうのは明白です。

 

しかし、同じ条件なのにインドはなぜ乱れていないかというと、

 

文化史が中国に比べて簡潔だからでしょう。

 

古代中国の魏・呉・蜀の三国時代に代表されるように、

 

高度かつ複雑な文化を有しており、

 

さらに近代中国の清時代に文化と経済が入り乱れ、

 

複雑化していったのです。

 

しかし、現代中国の共産主義では統治に限界があります。

 

中国は古代、文化大国でしたが、現在では経済大国になりました。

 

人口も一人っ子政策を投じて約40年、

 

2016年にようやく撤廃され70年ぶりの人口減少となりましたが、相変わらず世界最多です。

 

そこに多種多様な宗教が絡んで、

 

さらに複雑化しているのです。

  

逆に日本は島国で、

 

隣国の影響を受けずに鎖国をしていたからこそ、

 

江戸時代のような安泰の時代が200年も続きました。

 

現在の法治国家は、

 

その江戸時代を基盤にして明治時代に革命が起こり、

 

第二次世界大戦でいい意味でも悪い意味でも文化も文明もリセットされ、

 

団塊の世代の人たちによって高度経済成長時代が発展していきました。

 

日本が一体感を持ち、

 

社会保障も充実して弱者にやさしい特性を持っているのは、

 

無宗教で島国で経済的・文化的に人を思いやる国民性があるからです。

 

私は、そんな日本に生まれて幸福です。

 

現代日本の弱点を強いて言えば、外交・貿易において協調性はありますが、

 

自国の方針を強く通せないところです。

 

人間性と同じで、

 

人が良すぎるのも相手を甘やかすことになりかえってよくないということです。

 

個人的には、憲法第九条改正の安保法案には反対です。

 

戦争をしていいという解釈もあり、心が荒立ちます。

 

どんな正義があったとしても戦争の悲惨さを思うと正義とは呼べません。

 

キリストの教えのように、

 

左手のほほを打たれたら右ほほも出しなさいという優しさが、

 

日本の弱点でもあり、最大の長所でもあるのでしょう。

 

人が良すぎることと矛盾しているように感じますが、

 

経済摩擦と暴挙である戦争の政策の問題や観点は違うので切り離して考えるべきであり、

 

無理やり一元化してしまうから大きな矛盾が生まれ問題になるのです。

 

どんな理由であれ、戦争や紛争、

 

テロリストなどを武力で解決するのは大義名分で、

 

正義とは呼べません。

 

正義とは、権力を振りかざして武力解決することではなく、

 

武力以外の手段で自国を防衛し、弱国を守るのことです。

 

しかし、実際他国が武力で攻めてきたら

 

武力で対抗するしか手段がないのが大きな問題ですが……

 

武力の強化体制は負の連鎖で、

 

やればやるほど悪くなり、

 

現在でも大きな問題となっている核兵器による抑止という緊迫した状態になります。

 

どこかでそれをやめて別の手を打たなければ、世界安泰はないでしょう。

 

そこで大きなカギを握っているのがアメリカの存在です。

 

アメリカはもともと移民の集まりで文化や歴史は浅いですが、

 

世界経済や武力に関する圧倒的権力を持っています。

 

世界平和に目を向けるためには、

 

そのアメリカが政治的・武力的権力を強行するのではなく、

 

日本や中国のような古き良き文化を取り入れていくことが平和への第一歩になるのではないでしょうか。

 

中国との経済摩擦やTPP離脱のように孤立して掌握するのではなく、

 

文化を発展させ、協調した政策を行うべきです。

 

北朝鮮の核開発に対する経済制裁にしても、

 

太陽と北風の教訓のように、

 

経済制裁という北風を吹かせるとかたくなに拒否します。

 

「核放棄したら、貧しい北朝鮮の人民を世界中の先進国が支援しますよ」

 

と太陽のように包み、

 

他の手立てをとるべきではないでしょうか。

 

アメリカは権力を持っているので、

 

孤立せず、チームワークという名の下で、

 

リーダーシップをとってほしいです。

 

何度も繰り返しますが、それには文化の育成や発達が重要です。

 

これはアメリカに限ったことではありません。

 

理想郷へ向けて、政治という大きな枠組みだけではなく、

 

個人間でも日々懸命に過ごしていきましょう。

 

私は、世界中の人々が精神的にも物質的にも満たされ、

 

平和で安心して暮らせる一つの国、

 

理想郷「地球」ができる日を心より待ち望んでいます。

 

 

 

 

・新しい働き方改革

 

デザイン系のクリエイティブな仕事は、

 

就労時間で給与査定できません。

 

常にアンテナを張って、

 

考えるのが好きでやっているかどうかがポイントです。

 

苦になるかならないかです。

 

逆に例えると、工場のライン作業員の仕事はシフト制で、

 

就業時間に対する給与査定です。

 

サラリーマンはその中間で、就業時間規定がありますが、

 

残業、休日出勤、休日に仕事のアイデアを考えること、

 

自分のスキルアップのための勉強などがあります。

 

今、働き方改革がピックアップされていますが、

 

機械的に時間で区切るのを視点にしただけのように感じます。

 

そうではなく、自分の性格と仕事の相性との意識改革を図る政策でなければなりません。

 

個人が政策に従うのではなく、

 

個人が政策をどう捉えアクションするか、ということが重要です。

 

この全体像を踏まえ、新しい働き方改革の提案とします。

 

 

 

 

・この世界経済の成り立ちとして

 

経済的弱国が存在するから、経済大国が存在します。

 

投資信託、株、仮想通貨、FX、なども同じで、

 

損する人がいるから儲ける人がいるという仕組みです。

 

ギャンブルにも同じことが言えますが、

 

一つだけ違うのはギャンブルは胴元が勝つ仕組みになっているということです。

 

逆に、Ζガンダムで例えると、

 

エウィーゴ、アクシズ、ティターンズという勢力が拮抗すると膠着状態になります。

 

つまり格差を無くすには、みんなが儲けるか、

 

みんなが貧困になるしかないということになります。

 

しかし私は、現代文明の発達により、

 

みんなが儲けるシステムが可能なのでは?とも思うのです。

 

現代では世界中の人々が経済的で文明的な暮らしができる時代だからです。

 

例えば、古代エジプトは文化は発達していましたが、

 

文明が無く、経済的で裕福な生活や社会システムの実現は不可能だったわけです。

 

無論、文明は長い年月の文化が元になってできますので、

 

文明の発達もそう簡単にはできません。

 

ここまで、世の中の人々が皆裕福か、貧困かという極論を述べましたが、

 

他にも皆、普通に一律の暮らしができるという考え方もできます。

 

しかしそれは、

「頑張っても怠けても同じ給料なら働かなくていい」と国民が思い始めて、

 

それが浸透して国が崩壊した、旧ソ連型社会主義の歴史につながります。

 

崩壊したからと言ってそれが悪い訳ではないですが、

 

それを基盤に最低限の生活を保障した上で、

 

頑張った人は頑張った分だけ裕福に暮らせるという経済社会システムが理想なのではないでしょうか?

 

もちろん、一朝一夕にはいきませんし、

 

これは理想論なので、

 

容易たやすい短答式になればと祈っております。

 

 

 

 

・人の上に立つ人の素養

 

性格が荒いのは豪快でいいですが、

 

ただその荒さが影響して精密度に欠けた仕事をしてはいけません。

 

ビジネスマンは、その場しのぎの要領の良さと勢いだけでは通用しません。

 

インターネットに頼った付け焼き刃のスキルは、似非ビジネスマンです。

 

リスクを最小限に抑えたり、技術を向上する「気づき」、

 

周りの人に対する「細やかな配慮」、先を見据えた「計画性」、

 

最高の機知を発揮するための「正しい知識」、

 

それをうまくコントロールする「知恵」、

 

企業を前へ導く「発想というアイデア」、

 

そして何よりも人の心を理解するための「教養」、

 

それらが人の上に立つ人の素養です。

 

 

 

 

 

・新事業の人事配置

 

新規事業の会社経営をする場合、

 

人事配置としてやってはならないのが、素人だけで運営する体制です。

 

例えば、規模の大きさにもよりますが、

 

新規事業の空間が二つ有るなら最低でも2人、

 

その分野に熟知したプロの人材を配置することです。

 

つまり、一つの空間に必ず1人は配置するという原則です。

 

そうしないと、ただでさえ暗中模索なのに、

 

新人従業員が健全に職務を全うできるはずがないです。

 

その分野に特化したプロなら、

 

状況を読み取り他の人材を動かして、

 

何とか運営方法を確立し、基盤を築くことが出来るでしょう。

 

 

 

 

・格差社会について

 

昨今の日本社会は格差社会と言われますが、

 

職業間における所得の差をなくさなければ根本的解決にはならないでしょう。

 

仮に生活レベルが同じだとしても、

 

結局、収入が違えば収支のバランスが釣り合わない、

 

すなわち経済的な格差が生まれるのです。

 

職業間における所得格差を埋めるため、

 

職業別低所得企業への助成金システムを構築すべきではないでしょうか。

 

 

 

 

・企業成長と人材

 

企業経営の人事において、

 

「この人は使えない」

 

「あなたの代わりは誰でもいる」

 

という言葉を使うのは、経営者としての敗北宣言です。

 

それを言っていいのは、意識を革命するほどの社員教育を施してからの話です。

 

理屈の通じない人にどんなにいい教育を施しても、

 

企業を活性化するどころか、問題や不祥事を起こすものです。

 

キャリアを問わず、

 

「人間性の高い人材を、最大限の教育によってどれだけ伸ばすか」

 

が企業成長の一旦です。

 

 

 

 

・例え方

 

あるとき、知人の営業マンが、

 

「仕事の向上」を電卓で例えて、同僚に説明していました。

 

「仕事を向上させるなら、まずいい手段選び。

 

例えば、今使っている電卓よりも高性能な電卓を使いますよね」と。

 

そこで私は、こう切り込みました。

 

「それを例えるなら、ガラケーとスマホがいいんじゃない?」と。

 

明らかに、スマホの方が圧倒的に性能が良いので、

 

よりよい方法を例えるにはもってこいです。

 

けれども、「電卓」という言葉に

 

「高性能な」という形容詞を追加しただけでは違いがイメージしにくい。

 

例え方は、誰が聞いても分かりやすく、

 

違いを対比できるものがよいと思います。

 

 

 

 

・気のそらし方

 

何でも気にしすぎる性格の人に、

 

ダイレクトに「気にしなくてもいいですよ」と言うと、

 

気にしないことを気にしてしまうので、

 

気持ちをどう持っていくかがポイントになります。

 

「少し横になって、目をつぶって休みましょう」と伝え、

 

ゆっくり時間をかけ思考が止まるのを待つようにします。

 

へたに励ますと禁句に触れてしまうこともあるので、

 

そっとしておいてあげるのがいいでしょう。

 

 

 

 

・体罰とパワハラ

 

昨今、主に学校教育の場で「体罰反対」という声が多く上がっています。

 

しかしそれを逆手にとって、

 

「先生、俺を殴ってもいいよ。殴ったらクビになるんでしょ」というように、

 

生徒が教師をあおるような事態もおこっているようです。

 

「体罰反対」の裏には、

 

劣悪化する教育現場の限界や難点が浮かび上がります。

 

「悪いことをしたら罰を受ける」というのは、

 

人類の長い歴史から脈々と受け継がれている文化です。

 

良識ある大人は別ですが、

 

成長過程の子供たちにとって、悪いことをしても罰がないことが当たり前になると、

 

善悪の判断ができなくなってしまいます。

 

時代の流れで体罰の捉え方は変化し、

 

今では痛みや恐怖を伴う指導は人権侵害とされます。

 

また、適正な範囲を越えて、

 

精神的苦痛を与える言葉での指導はパワハラだという風潮もあります。

 

体罰やパワハラの根本的解決策は、悪いことをした後に罰を与えるだけではなく、

 

成長過程の早い段階で「なぜ悪いことをしてはいけないのか」を

 

正しい言葉で子供たちに教育すること、

 

にあるのではないでしょうか。

 

そのためには、

 

親や教師などの指導者が正しい知識と情報を持つことが重要です。

 

公正な意思を子々孫々に至るまで伝えていき、

 

「幸福の未来」となることを信じて私の想いをしたためました。

 

 

 

 

・精神疾患と犯罪

 

現在の社会では、数十年前より、

 

障碍者に対する偏見がかなり減ってはいますが、

 

それでもまだ残っているのが現状です。

 

私も当事者で、病気になってから20年の間、

 

何百人という障碍者と触れ合ってきました。

 

その中で思ったのは、障碍者には根が真面目な人が多いということです。

 

そして、一生懸命働いている人もたくさんいます。

 

そのように安定して仕事ができるのは、

 

いい向精神薬が開発されたこと、

 

障碍害者を支援助する法律が整備されたこと、

 

福祉支援員が増加して環境が整ったこと、

 

などが大きな要因です。

 

私がドラッグストアの障碍者求人枠で働いていたときも、

 

見た目が普通だったので、同僚はどこが悪いのか不思議に思っていたようです。

  

最近ではあまり聞かなくなりましたが、昔はわざと強調して、

 

精神疾患と犯罪を結びつけるような報道がなされていました。

 

偏見助長の発端は、メディアの取り上げ方にも一部原因があったのでは?と思います。

 

身の回りで聞いた話では、ごくまれに罪を犯す障碍者もいるようですが、

 

確率的には健常者が罪を犯すのと変わらないではないでしょうか。

 

従って、容易に「障害=犯罪=悪人」と結びつけるのは明らかに間違いだと思います。

 

現在、日本に400万人を超える精神疾患患者がいて、

 

その数からすると、犯罪者と精神疾患患者が偶然合致することも可能性としてあるのは事実です。

 

しかし、多くの場合、犯罪と精神疾患を結びつけるのは後付けで、

 

何らかのストレスにより心神喪失状態になって罪を犯した人を、

 

精神疾患の経既往歴と意図的につなげているような気がするのです。 

       

犯罪の根本は、その人自身の心の在り方に関わっているのではないでしょうか。

 

私は統合失調症の急性期のときでも、善悪の判断能力があり、

 

精神科病院の保護室にいた四カ月間、一度たりとも人に危害を加えませんでした。

 

しかし、精神疾患の症状で明らかに善悪の判断能力が衰えている障碍者の場合、

 

本人や周囲の人を守るために、

 

一定期間精神科病院で保護するのは適切なことだと思います。

 

苦難や逆境に負けず懸命に生きる障碍者を皆が理解し、

 

誰もが分かり合える世の中になることを願っています。

 

 

 

  

・文章をうまく書くコツ

 

私たちは学生の頃から、

 

作文や弁論大会など自作の文章を書く機会があります。

 

私は、学生の頃はどちらかというと文章を書くのは苦手でしたが、

 

社会人になって会社の広報誌を担当するようになってから、

 

少しずつ書くコツをつかみました。

 

文章は、思考や知識、情報などの材料がなければ書けませんし、

 

文章の核が無ければ何を伝えたいかが読み手に伝わりません。

 

インターネットや本から引用した文章を使うのは簡単で、

 

程よくまとまっていますが、

 

逆に難しくても一から自分の言葉と想像力で作った文章は、

 

その人の味が出ていて飽きません。

 

料理に例えると、冷凍食品と家庭料理の違いです。

 

余談ですが、選挙演説などで話し手が何を言いたいかわからないのは、

 

聞き手の理解力の有無だけではなく、

 

テーマを絞らず話が一転二転していることにも原因があるでしょう。

 

核が無ければ話は伝わらないのです。

 

つまり、文章をうまく書くコツは、

 

テーマを明確にしてそれに関係することを肉付けし、分かり易やすく説明することです。

 

 

 

 

・平等な社会

 

悪いことをしても平然としている人と、

 

思いやりがあって愛に生きる人が同じ扱いを受けるのには疑問を感じます。

 

それを平等にするために、悪いことをしたら罰を、

 

良いことをしたら恩恵を与えるという「正負の法則」が存在するのでしょう。

 

現実社会では、悪いことをしたら法律で罰せられますが、

 

逆に良いことをしてもほとんど恩恵はないです。

 

恩恵を受けるために良いことをするというのは本末転倒ですが、

 

やはり真面目に清らかに生きている人に恩恵を与える社会制度を構築すべきだと思います。

 

 

 

 

・原子爆弾

 

アメリカのある大学の講義の中で、

 

原爆を正当化できるかを討論したそうです。

 

数人のアメリカ人の中に一人だけ、

 

祖父が被爆者という日本人の学生がいて、

 

その学生だけが正当化できないと主張したそうです。

 

まず前提として、

 

これは民族の思想の違いでは済まされない話であると、

 

私は思います。

 

明らかな戦争終結に追い討ちをかけ、

 

罪もない人を何十万人とあやめることに、

 

どういう正義があり、

 

なぜそれを正当化できるのか理解できません。

 

私たちは、被爆者の被害を映像と体験談から見て聞いて、

 

悲惨さを知ることから始めなければなりません。

 

それもせず、たかが論理だけで、

 

罪もない人をあやめるのを正当化するのは安易すぎます。

 

それは、他人の絵空事として口先で正当化しているだけで、

 

例えばテロ被害で愛する人を失ったらどんな気持ちがするか、想像してほしいのです。

 

無差別殺戮りくなど言語道断で、

 

国語や民族や、価値観を越えた先にある人の心に重きを置かなければなりません。

 

戦争終結の軍事的解決手段など議論しても、

 

水掛け論で後の祭りです。

 

愛する人を失う悲しさを想像して、

 

原爆の正当化ではなく、

 

そもそも原爆そのものをなくす議論をすべきではないでしょうか?

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