・自信とは
自信とは、読んで字のごとく自分を信じるということですが、それだけではない深い意味を持っていると思います。
自信とは内に秘めているもので、外に出すと自慢、根拠のあるものが自信で根拠のないものが過信、というようなことになると思います。
内に秘めていて根拠がある正当な自信とは、スポーツ選手でいうと人一倍練習して積み上げてきた根拠をもとに、
自分はあれだけやったのだからできるんだと自分に言い聞かせることだと思います。
これを、外に出して自慢するのは良かったり悪かったりで、
良い側面は他人に言ったのだからやらないと格好がつかないという程よいプレッシャーになり、
自分を律することができることだと思います。
逆に、悪いことは相手を不快にしたり、言ったこと以上のことが出来なかった時に、自分に惨めさが降りかかってきて、自分の首を絞めてしまうことです。
自信は、スポーツだけにとどまらずビジネスでも発揮しなければならない局面があると思いますが、
ビジネスではお金に目がくらんでしまうと精神が薄れてしまい、儲けるどころか法を犯してしまうことにもなりかねないと思います。
自信を持ち成功を狙うには、煩悩を断ち切り無欲の精神が必要だと思います。
お金だけが成功の指標ではなく、社会貢献、自分の価値を磨くための努力や人徳なども成功の要素だと思います。
謙虚に自信を持ち、気づいたら本当の意味での成功が待ち構えているのではないでしょうか?
・人を引き込む二つの得
人の心はコンピューターのように、1と0の二進法のように、
スッパリ分かれているものではなく、はいかいいえ、では分けられないグレーゾーンがあります。
それを二者択一のように無理やり分けようとするから、
矛盾が生まれそれがやがて悩みへ変わるということになります。
人の心をコンピューターに例えると、0と1の間の小数点ということもありますし、
0でも1でもあるということもありますし、0でも1でもないということもあります。
コンピューターのプログラムは有限ですが、人の心というプログラムは無限だと思います。
人の心は感情ありきの論理的思考で、論理的思考ありきの感情ではありません。
人望があり人徳がある人は、その原理を熟知している、
もしくは言葉には表現できないけれども感覚的に備えている、ものだと思います。
人望があり人徳がある人は、人の心のツボを知っており、
自分に引き込む二つの得を兼ね備えています。
それは、説得して納得させるということです。
説得だけして、相手の頭だけで理解できても心は動きません。
説明なくして納得させるというのは論外だと思います。
この二つの得の均衡が保たれることにより、
人の心は動き、その人に吸い込まれていくのではないでしょうか?
・自分と向き合う
自分を好きになれることは素晴らしいことであり、
そうすると人にも優しくできるようになります。
ここでいう自分を好きになるとはナルシストという意味ではなく、
自分の将来像に向けて努力をし、その過程で喜びを感じ好きになるということです。
しかし、努力と無理には大きな違いがあります。
努力は自分の能力のキャパシティーを知っていて、心に余裕を持ち、
できる範囲内で今の自分の限界を突破していき心を育てることです。
無理は自分の能力のキャパシティーを無視し、心が病むような状態まで、
自分の限界を遥か遠くまで突き詰めていき、心を破壊することです。
このように、心を育てることと心を破壊することは、まったく逆のことを意味します。
自分と向き合い自分を磨くとは、自分との戦いで過去を回想し、
反省したら未来を展望し具体策を練り、まとまったら今の一瞬一瞬をかみしめて生きることだと思います。
未来を展望する際、自分を買い被ってしまうと心を破壊する要因にもなります。
逆に自分を卑下しても心は育たないと思います。
つまり、今ある当たり前の自分は現実的にどう生きるのかと展望し、自然体でかつ上を向いて、
今を、一瞬一瞬を生きていくことこそ、自分と向き合うということの真髄なのではないでしょうか?
・才能
私は精神世界というものを信じる方で、死んでからも好きな酒を飲んだり、
友達を作ってくだらない話でバカ騒ぎ出来たらいいなと思います。
現実世界は厳しく、才能がある人がのし上がっていき世の中をコントロールしていきます。
無論、近代社会では民意を反映しようという民主主義の国が増えつつありますが、
それでも数多くの国の人々が飢餓、紛争で命を落としています。
テレビで、世の中のトップは善人で無能か、悪人で有能か、
しかいないということをある著名人が言っていました。
誰であれ、有能で善人のリーダーの活躍を期待しています。
前置きはこれくらいにして、才能とはどういうことか、
現実世界と精神世界の観点から述べたいと思います。
僕の友達が、人間は努力できる才能を持った人と、そうでない人に分かれると言っていました。
そうなると、努力という言葉はいらず、全て才能ということになります。
しかし、これは人間を怠惰の方に持っていく危険な言葉です。
重要なのは、努力する努力ではないでしょうか。
まずこの世に生を受けて、何の才能にも恵まれずとも、
人との出会いや自己啓発により努力していく姿勢を持っている人には感銘を受けます。
精神世界があるとすれば、そこで努力したことが生まれてからの才能になるのではと思います。
そうでなければ才能とはどう与えられるのか?という疑問が残ります。
私の持論では、生きている間も努力、死んでからも努力であり、
生を受けてから才能という言葉に表現を変えただけではないでしょうか?
いついかなる時も、努力を怠らない人がこの世に生を受けて才能を生まれ持ち、
その上に努力を積み重ねてきた人たちが、俗にいう偉人だと思います。
はたから見れば天才と呼ばれた人たちは才にあぐらをかかず努力を怠らず、
一歩一歩前進してきたからこそ世界のトップに君臨していると思います。
最初から才に目覚めることはそうはなく、
誰しも持ってはいるけれども眠っているだけということも多々あるのではないでしょうか。
つまり、何をすればいいかは誰にも最初からは分からず、
興味のあることをやってきっかけを作り試行錯誤しているところで、
偶然と必然が出逢ったとき、これが才だったのだとはじめてわかる、
というような結果論ではないかと考えます。
・仕事
私は、仕事をするうえで三つの柱を設けています。
(1)向上心
(2)知ることより気づくこと
(3)ふざけるのではなく楽しくやること
(1)の向上心ですが、やるからには惰性でやりたくはないですし、
サービス業ではアルバイトであろうが正社員であろうが、客からすればただの店員というのが社会だと思います。
向上心と充実感は密接につながっており、
自分がどんな立場であろうが上を突き詰めて仕事を頑張れば、
一日が終わった時の充実感は言いようのないものです。
向上心は裏を返せば自己顕示欲であり、向上心は自分の内面を、
自己顕示欲はその行動で指し示すことによって、他人に自分をアピールするということです。
自分の内面を磨き、自己満足に浸るだけではなく、
他人にも認められるということはこの上ない喜びであり、まさに人生の糧だと思います。
(2)の知ることより気づくことですが、
まず知ることには理解力だけが求められます。
しかし気づくことには、
知ることである理解力プラス注意力、
そして分析力が問われ、気づくことの方が難易度が高いと思います。
言い換えると、知ることというのは、
教えを説いてもらい忠実に再現することでかないますが、
気づくことというのは自分なりの思考能力が問われるため、
その奥深さに魅力を感じます。
私が介護の仕事をしていた時の話ですが、
最初は何をしていいか右も左もわからず、指示を受けてから動いていました。
段階でいうと、この時点では知ることだけで充分だと思います。
確かに、資格を取って実技も練習しましたが、
簡単に実践で技術が通用する段階ではないというのは明白です。
介護は体の不自由な方をサポートするので、
特に車椅子移乗、入浴介助、排せつ介助は危険が伴います。
学校で習ったことでは足りないような要領を教えてもらい、
それを忠実に再現することで、危険を大幅に食い止めることができるからです。
そして、四か月ぐらい経つと教えてもらったことが身に染みて、
お年寄りの危険を回避する最善策を取れるぐらい体が動くようになりました。
また、事務的作業である記録の基本的な書き方も至らない点はありましたが、
修正を加えてもらいつつできるようになりました。
そこで次の段階です。アンテナは常に張らないといけませんが、
それをより強力にして、入居者の言動を細かく察知し、気づく段階に入りました。
あるお年寄りが、
朝目覚めて一時間ぐらいの間に五~六回ぐらい用を足したいと言うようになり、
それが一週間ぐらい続きました。
用を足したいと言うのですが、尿も便も出ない状況です。
これはおかしいと思った私は思いを巡らせ、
尿なら詰まることはないので、便がしたくて一時間の間に五~六回も職員を呼ぶのだなと気づき、
その上認知症だから、便がしたいという表現がうまくできないのだなと気づきました。
そこで、ピンときて記録を見ると、やはり便の出た形跡がないので、
下剤を処方してもらい服薬すると、それ以来用を足したいという回数が元に戻りました。
これが気づくことだと思います。
知ることだけでは機械的な作業になってしまい、
人を相手にする仕事では知ることだけでは足りないと思います。
(3)のふざけてやるのではなく楽しくやる、については至ってシンプルで、
仕事をおろそかにしてまでおしゃべりをするということではなく、
苦手な仕事でも仕事の切れ間に冗談を交えコミュニケーションをとる、
という目的も兼ね備えて仕事を楽しくやるということです。
・悩み事
人生には悩み事がつきものです。
人の悩みは冷静に見れても、自分のこととなると見えなくなってしまう。
そんなことが多々あります。
悩み事には大きく分けて二つあり、
一つは考えてもどうにもならない不可抗力的悩みと、
もう一つは考えればどうにかなる未来希望型悩みです。
前者の不可抗力的悩みとは対人、
ことさら他人の感情が入ってくる悩みで、
人の感情や考え方はそうやすやすと変えられることではないので堂々巡りすることが多いように感じます。
そんな時は不本意ではありますが、運動してリフレッシュするとか、
誰かに思いの丈を話すことで、根本的に解決しなくても気分はすっきりすると思います。
また、気を紛らわせて、時間が薬だから忘却するのを待つ、
というのも一つの手だと思います。
他には、自分の考え方を変えてみるという手もあります。
例えば、攻撃的な言葉を浴びせられたら、
「ああこの人は私に試練を与えてくれる人で、正直に物事を言う人なんだ」だとか、
「心は足の皮のようにダメージを受ければ受けるほど厚くなり、強くなっていくものなんだ」だとか、
自己暗示的な考え方の転換をしてみるといいと思います。
後者の未来希望型悩みとは、自分の心の中だけで起こることが多いようで、
例えば、「引っ込み事案だけど、人前で話せるようになりたい」とか、
「自分に合った仕事が分からない」というようなことです。
解決策としては明確で、
まず自分がどうしたいかという方向性の柱を作り、
いろいろな人の意見に耳を傾け選択肢を増やす、ということです。
このとき注意しなければならないのが、
相談者はアドバイザーの意見を鵜呑みにしないことです。
逆に自分がアドバイザーになったら、
選択肢を押し付けないことと、
他人の悩みを聞くことで自分にも恵みがあるというスタンスで向き合うことが重要だと思います。
なぜかというと、選択肢を選ぶのは自分であり、
自分が選んだ道を進めば後腐れなく後悔しないからです。
もしアドバイザーの意見を鵜呑みにして失敗すると、
あの時こうしていれば……というような、悩みの二重連鎖が生まれてしまうでしょう。
とある著名人がこう言っていました。
「やらないで後悔するより、やって後悔しよう」
勇気のいる局面もあると思いますが、とても素晴らしい言葉です。
また、悩みというメカニズムを心理的に考察すると、
挙列と葛藤という切り口もあります。
挙列とは二つの似通ったものが心に入ると、優性を選ぶということです。
例えば、アナログテレビより高画質なプラズマテレビがいいというようなことです。
悩みとどう繋がっているかというと、
今抱えている悩みの選択肢をさらに練り、挙列するものを挙げ、最善を尽くすということです。
また、葛藤とは挙列の逆で、
二つの相反するものが心の中に入ったとき矛盾する心理(悩み)のことです。
例えば、大学という自由な感じはいいが、
就職はしたくないという悩みは、大学と就職でせめぎ合い、明らかに矛盾しています。
この場合、解決する方法が4パターンあり、
1「大学に残る」(大学院に進むなど)
2「就職する」(不本意ではあるがとりあえず就職する)
3「どちらでもない方法を考える」(フリーターをする)
4「二つを繋げる」(大学院に進み、働きながら勤労学生をする)
この葛藤と挙列は理論上の考え方であり、
悩みとはいろいろな条件が絡み合うことで生まれることが多いので、
わりかしシンプルな悩みに最適だと思います。
・嫉妬とは
嫉妬とは、結論から言うと身近な人に感じやすいです。
例えば、京都大学山中伸弥教授が、様々な細胞に成長できる能力を持つiPS細胞の作製に成功し、
ノーベル生理学・医学賞を受賞したというような話を聞いても、そうなんだで終わります。
しかし、仲のいい友達に才色兼備の彼女ができたと聞くと、悔しいなと嫉妬してしまいます。
嫉妬とライバル心は、密接につながっていると思います。
その才色兼備の彼女ができた友達が無二の親友だと、
うれしさ半分嫉妬半分という微妙な感情になることもあると思います。
そこそこ仲のいい友達だと、嫉妬が大半だと思います。
このように、嫉妬という感情は、ひがみややっかみを生むこともあると思いますが、
捉え方によっては原動力にもなると思います。
アイツにできて俺にできないわけがないというような……。
この原理が分かっていれば、ひがみややっかみより、
奮発材として原動力に変えた方が自分にとってはプラスだと思います。
最後に、嫉妬は自分と相手の能力が近い場合に起こるものであり、
かけ離れていれば尊敬、かけ離れすぎていて天と地の差がある場合、崇拝になると思います。
・言葉
日本語は難しく、一文字間違えただけで全然違う意味になります。
「その髪にあってるね」を、「その髪におってるね」というと危ないです。
けれども、その難しさが日本語の情緒あふれるところかもしれません。
そこで、使っている日本語や、ここをこうしたらいいのでは、という造語を少し集めてみました。
「心配」とは、あまりいいイメージはないですけれど、「心配りができる」という意味にもとらえられます。
「経済」とは、「お経の済んだ世界情勢」を示すものです。
「儲ける」とは、「儲」を二つに分けて、商売には欠かせない「信者」を増やすということです。
「大切」とは、大きく切ないと書きますが、過去に失った大事なものは大きく切ないですよね。
だからこそ、今あるものが大事(大切)という意味ではないでしょうか。
次に造語ですが、「頑張る」は頑固に気を張るような堅苦しい感じがするので、
「頑晴る」とすると、晴れ晴れするというようないい響きに見えます。
「助け合い」は、愛情なくしては成立しないことから、
「助け愛」という言葉がいいと思います。
「審美眼」というと、美しいものと醜いものを見分ける眼という意味ですが、
「心美眼」として、人や物を見るとき美しい心の眼で見るという言葉に意味を変えるのもいいと思います。
・言葉の裏
何か言葉を発するときに、いちいち理由を考えてから発言する人はそういないと思います。
意味深な言葉でない限り、言っていることに意味のないことの方が圧倒的に多く、
突き詰めて考えても答えは出てこないと思います。
例えると、好きなことに理由がないように……。
答えがあるとすれば、
「ただ何となく」とか
「そんな気分だから」としか言いようがないと思います。
ということは、嘘やごまかしは見抜いたうえで人の言ったことを疑ったり、
ひねくって考えすぎたり、勘ぐってはならないと思います。
心の中で言わなくてもいいと思い、
言わなかったその全てがその人の世界観であり、
言われたことは素直に受けるべきではないでしょうか。
人の言葉で困惑したり迷宮入りした時は、
シンプルに聞き入れてみると、答えは案外簡単なのではないでしょうか。
子供のころの一時間って長かったです。
授業早く終わらないかな、なんて思いながら手遊びをしていたら、よく先生に注意されたものです。
子供って、何から何まで真新しくて感受性が強いから、時間を長く感じるようです。
逆に大人になると仕事や子育てに追われ、同じことの繰り返しで感受性も薄れていくことから、
二十歳過ぎるくらいになると時間がたつのがすごく早くなります。
時間は誰にも同じように与えられていますが、
時間の質というものは自分が作り上げていくものだと思います。
時間の質とは、例えば朝の通勤電車の中で、今日はこれとこれをやってこれで終わりだ、
というような大まかなタイムスケジュールを作るなど、どれだけ充実した時間を活用できるかということです。
その一日一日を積み上げていけば、知的財産というスキルが構築されていくわけです。
たとえその時にしか役に立たなかったとしても、いつかどこかで何かの役に立つと思います。
時間の質を掴めば、人生無駄なし
ということだと思います。
・知らなくて幸せ
友達や、親戚、知人の中に、知らなくてもいいことを教えるおせっかいな人が一人はいますよね。
そんな時、知らなくて幸せということもあるんだ‼
ということを声を大にして言いたくなります。
しかし、この「知らなくて幸せ」の意味をはき違えている人をたまに見かけます。
重大なことなのに私利私欲のために知らせない人がいますが、
それは自分のエゴで人と自分を巻き込み滅ぼす嘘です。
また、これとは逆に嘘も方便の嘘は、相手を思ってこその嘘で、
「知らなくて幸せ」ということです。
重要なのは、本当のことを要領よく言うことです。
・出る杭
日本の文化の中に、出る杭は打たれるという言葉がありますが、
結局は打つ者の身丈ほどの物しか打てないと思います。
打たれるうちは、まだ中途半端なのではないでしょうか?
打たれて打たれて強い杭になり、何よりも固く長い杭になれば、
逆に杭を打つ者がしがみついてくるのではないでしょうか?
・似ているけれど違う言葉
おだてるという言葉は、一般的にいい意味では使われないですが、
褒めるという言葉はいい意味で使います。
どちらも相手の気分を上げるということでは共通していますが、
おだてるとは、ないことをあることのようにごまをすることで、
褒めるとは、その人を的確にとらえ良く言うということです。
また、ぬか喜びという言葉も一般的にいい意味では使われないですが、
希望はいい意味で使います。
どちらも将来を展望するという意味では共通していますが、
ぬか喜びとは、まだ実現もしていないのにこれはこうなるからいい結果になると決めつけて、
周りの状況が見えなくなってしまうことで、
希望とは、こうなったらいいなという推量で、
一つのことに囚われず全体像が見えていることです。
希望を持って視野を広げ、結果を急がない、決めつけないことは大変重要だと思います。
・偏見はなぜ起こるか
私は、介護の授業で、偏見はなぜ起こるかということを勉強し、とてもためになりました。
その中身は結論から言うと、知らないから、分からないから、です。
例えば、噂話で
「○○さん、風邪ひいて仕事休んだんだって」
というようなことはよくあることで、言うにしろ言わないにしろ延々と噂はしません。
なぜなら、自分も経験があり、理解できるからです。
一方で、
「○○さん、精神病で入院したんですって」
というようなことは、あることないこと噂します。
あることないことが偏見で、知らないから、分からないから起こります。
偏見がゼロになることはなくても、少しでも減ることでいい世の中になると思います。
偏見を減らすためには、メディア、個人の間で偏見に関する情報を共有することが大事ですが、
聞く耳を持たない人は必ずいるでしょう。
知らないことは悪ではない
知ろうとしないことが悪ではないでしょうか?
社会が一丸となって、理想郷の地球ができる日が来るといいのに、と思う今日この頃です。
・大は小を兼ねるの本来の意味
小さなものがいきなり大きくなったものや、
初めから大きなものなどは、中身がなく寿命は短いと思います。
それに大きなものは小さなものに入りません。
つまり、小さなことからコツコツ積み重ねて大きくなったものが意義ある大です。
大きな視点で小さなものを見るのは見当違いです。
大事なのは小さなものを積み重ねてきた過程や成果です。
・心で感じるとは
これを理屈で説明している時点で、
心で感じていないのですが、あえて言葉で表現します。
その時の風景(視覚)、その時の匂い(嗅覚)、
肌をなでる感じ(触覚)、心地よい風味(味覚)、心躍る響き(聴覚)、
最終的にそれら全部を含めた感覚(第6感である直感)が心で感じる、ということではないでしょうか。