・死生観
テレビの番組で、ある作家が死生観を述べていて、
私もふと立ち止まって考えるきっかけになりました。
その作家は、長年、難病で激痛を伴う闘病生活を送っていた時期があったそうです。
その時、「なぜ自分だけこんな目に遭うんだろう?なぜ人は死なせてくれないんだろう?」
という思いに駆られていたそうです。
その問いに、あるコラムニストが
「死は自分で選べてもいいと思う。現に安楽死を選択できる国はいくつかある」と答え、
作家の
「死もカジュアルになってもいいのに」
と言う言葉で、番組は終わりました。
私も統合失調症で、闘病生活を20年間続けているので、
病気の恐怖や苦痛はよく分かります。
しかし、それは生きているからこそ感じることであり、
私はその先にある希望を胸にこれまで日々がむしゃらに生きてきました。
だからこそ、私はその番組で述べられた死生観には共感できませんでした。
人は「生きるために生まれ、宿命を果たして死ぬ」という形で旅立ち、やがて輪廻します。
「なぜ人は死なせてくれないんだろう?」という問いは、
「なぜ人はもっと生かしてくれないんだろう?」という問いにつながり、
愛し合う人たちのために「もっと生きたい」と願う人もいます。
「人は一人では生きられない」と言いますが、そう考えると命とは自分だけのものではなく、
生んでくれた親や苦楽を共にしてきた兄弟、伴侶、子供、友
などの愛し合う人たちのものでもあります。
だから、本来自殺というのは絶対あってはならない死の形です。
人生の集大成である死をカジュアルにしてしまうと、
生きてきた証が薄れるような気がします。
人生は、宇宙の永い歴史に比べれば瞬きにも満たないはかないものだからこそ、
気高く生き抜き満足して死んでいくのが、私の理想の死生観です。
・愛憎悪愛
この世の諸悪の根源は、根深い怒りやねたみから生じる憎しみです。
私が生きてきた40年の間で、
3~5歳位の子どもが殺人事件を起こしたというようなことは耳にしたことがありません。
幼い子どもでも怒りの感情はありますが、
人を殺すほどの憎しみはまだ感じることはないでしょう。
世界中の人々が、子どものような純粋無垢な心を持ち続け愛に生きれば、
憎しみも悪も消滅するのではないか?という理想があります。
しかし、人間の成長過程ではさまざまな障壁があります。
生まれついて、あるいは人生の途中で、
思いもかけずに障碍を背負うことになった人たちもいます。
障碍者からすると、好きで障碍を抱えているわけではなく、
どうしても仕事ができず現状止まりの人、
病状が良くなれば働きたいけど今はできない人、
軽作業だけど自分なりに懸命に働いている人など、
いろいろな人たちが数多くいるので偏見を持たないでほしいのです。
実際に身近にあった例で、
「障碍者は俺たち(健常者)が稼いだ税金で飯を食らって、無駄遣いするダメな人だ」
という根深い怒りを持った人がいました。
そんな根深い怒りにとらわれて人と接し続けると、憎しみが他人に伝染し
、その憎しみの感情が暴走すると犯罪にもつながります。
これは個人の偏見が生み出す諸悪の根源です。
「悪」という漢字を見ると、「心」という漢字が含まれます。
「亜」の部分の由来は、上から押さえつけられる、
すなわちトップに出られない、という意味があります。
漢字の成り立ちからもわかるように、
悪は権力の圧力からも生まれるのです。
権力による圧力に不満を持つ人間が根深くねたんで、
同じ思想の人をインターネットSNSなどで募り、
膨らんだ自分たちの憎しみを殺りくという形で世に知らしめるのが、
狂気の集団テロリストです。
これは権力の圧力が生み出す諸悪の根源です。
しかし、長い間悪に染まっている人や集団を、
今すぐ更生、消滅させることは非常に難しいことです。
そこで、悪を根絶し愛溢れる世界にするためには、
少しずつ確実に、正しい権力の在り方を確立すること、
個人間の偏見をなくすことが重要です。
正しい権力の在り方を確立するためには、
戦争や人権侵害などの悪に染まった歴史を振り返り、
二度と同じ過ちを犯さないよう、
歴史の世界共通認識を作り上げることが一つの案です。
なぜかというと、国によって解釈が違う偏った歴史教育がなされると、
認識の違いにより戦争や紛争などの国家対立問題にまで発展する恐れがあるからです。
世界中の歴史有識者が英知を振り絞って、公正かつ中立な歴史の書を作ってほしいです。
そして、もう既にこの世にいない戦犯や、
人権を侵害した人たちのことをいつまでも引きずり根に持つのではなく、
一度和解したら掘り返さないことも大事な心得だと思います。
また、個人間の偏見をなくすためには、
既存の教育に「悟り教育」を加えることが重要だと思います。
すなわち、従来の教えて覚えさせる詰込み型教育だけではなく、
問いを投げかけて主体的に気づかせる探求型教育を加えることです。
「なぜそうなるのか?どうしたらいいのか?」を、
失敗も含め自分なりに考えて、人生経験を積んだ上で答えを出せば、
人は寛容になり偏った考え方をしなくなるのではないでしょうか。
分かりやすく例えると、
算数の公式で「三角形の面積の求め方は底辺×高さ÷2ですが、なぜ÷2なのでしょうか?」
と問いかけます。
答えは「四角形を対角に半分にすると、三角形が二つになるから」です。
法則的な思考を鍛えるためには、こういう問題を繰り返す方法が得策です。
また、世界中にはなぜ、見た目や考え方の違う人がいたり、
さまざまな仕事が存在するのでしょう?と問いかけると、
問われた人たちはあれこれ考えるでしょう。
教育者は、その答えを危険な考えでない限り褒めて、個性を育てます。
統一できない個性を感情豊かに育てるには、こういう問答がよいでしょう。
メディアの役割は、認知度は低くても重大な社会問題を世間に発信し、
個々人に問題意識を持たせて解決の方法を考えさせることです。
どんな小さなことでも、
個々人が他者や社会のために貢献したいと思えるように、
意識の改革をするところから始まります。
人間は皆、愛を持って生まれます。
他者や社会のために生き、
思いが伝わらなかったり響かなかったりすると愛故の憎しみを抱き、
時として悪へと横道にそれることもあるでしょう。
しかし、そんなときは幼い頃の純粋無垢な心を取り戻し、
愛に生きてみると、「愛故に愛でしかない」という境地にたどり着くはずです。
これぞ、「愛憎悪愛」という悟りなり。
・好かれる人と嫌われる人の特徴
言わずと知れたことですが、好かれる人の特徴は優しいことです。
それは主に、
「人の話を丁寧に聴く、きれいな言葉遣いをする、親切である」ということです。
人間は誰しも、自分の言いたいことだけを言う人よりも、
他人の話もよく聴いてくれて気持ちをわかってくれる人に好感を持ちます。
きれいな言葉を選び、他人のことを大切に想って励ましたり、
勇気づけたりしてくれる人には信頼が置けます。
他人が困っているときに、
素知らぬふりをせず心配して助けることのできる人に思いやりを感じます。
一方で、嫌われる人の特徴は主に、
「すぐ怒る、人の悪口ばかり言う、見下した態度をとる」ということです。
この三つの特徴は理屈ではなく、
人間誰しもが大体共通して感じることです。
受けた本人も周りの人、もいい気分はしないでしょう。
誰もが人から嫌われずに好かれたいですが、完璧な人間はいません。
しかし、努力することはできるので、自分に迷いを感じたとき、
これらの特徴を見つめ直してみてはどうでしょうか?
・ギャップ
人間は、ギャップがあると素敵です。
人間の魅力の一つに真面目さがありますが、
普段真面目な人がたまに冗談を言うと、その落差に心引かれます。
他にも、勉強はしないのにスポーツになると目の色を変え機敏に動く様、
普段はお金を節約するのにここぞという時に豪快におごる様、などもそうです。
ただ、注意しなければならないのが、
人をだましたり陥れたりする二面性のある人で、
それはギャップではなく陰日向のある人です。
ギャップは対極の概念なので、逆転の発想が必要です。
物事を自分の視点だけでなく、
相手の視点からも見てみると新しい発見があり、
それを意識して身に付けるとギャップになります。
ぜひ、皆さんもたくさんのギャップを身に付けて、
光輝く人になってください。
・私が受けた教育を振り返って
私は母親から、
「自分の要求ばかり言いなさんなよ。鼻高々になりなさんなよ。
周りをよく見て盲信しなさんなよ(一つのことだけに囚われなさんなよ)。
時と場合と場所を考えなさい。勉強だけが全てではないよ。
何でも自分の思い通りになると思いなさんなよ」
などと言われて育ちました。
父親からは、
「けじめをつけろ。基本的生活習慣が大事。
やるときはやる遊ぶときは遊ぶ。継続は力なり。
男は中身で勝負だ。人におごるのは自分が稼いでから」
などと言われて育ちました。
両親のその教育のおかげで、中学の時からの志望大学にも受かり、
大学二年までは自分の思い通りの人生でしたが、
その後統合失調症を患い、努力の結晶であった大学を中退して、
挫折を味わうことになりました。
しかし、その挫折で人の痛みがわかるようになり、
順風満帆で生きていたら今の私はなかったと思います。
私が通ってきた道を振り返って思うのは、
親はどんなことがあっても子を見離してはいけないということです。
子どもの頃に、協調性がないからといって諦めたり、
叱ったりするばかりではなく、自由にいろいろな経験を積ませ、
成功と挫折を味あわせて成長を見守ってもらいたいです。
そうすると、協調性とは別のリーダーシップを取れる人間になるかもしれません。
いつの世も、ある意味リーダーシップを取る人間は孤独な面があります。
いろいろな事を経験せず、周りに流されて何となく生きるよりは、
失敗してもチャレンジする人のほうが輝いています。
親が子どもに声をかけたその時は、
ほんのりと軽く捉えられるぐらいだと思います。
子どもには親ほどの人生経験がないので全ては理解できませんが、
だからといって何も言わないのは本質から離れています。
子どもにとって重要なのは刷り込みで、
言葉では覚えていなくても感覚で分かっていると、
自然によい方向へ育つでしょう。
そして、人生経験を積んで自分がその親の年頃になったときに、
理解できるようになります。
子どものうちの刷り込みがないと、親になっても甲斐性が無かったり、
子どもへ虐待したり、まっとうな子育てができない原因になるのではないでしょうか。
反面教師でしっかり育つ子どもは稀で、子どもは親の教えや背中を見ています。
しかし私は、厳しく教育されすぎて屈折したり、ひねくれたりしている人も見てきました。
放任ではなく、あえてやらせる優しさが個性を伸ばし、精神的自立につながります。
私が中学一年生の夏休み、友達と自転車で遠方にキャンプに行って、
タイヤがパンクしてしまったことがありました。
私はその時、母親に「車で迎えに来て」と言いましたが、
「自分でどうにかしなさい」と言われ、結局友達にお金を借りてパンクを修理して帰りました。
自分で問題を解決することを覚えた出来事でした。
基本的には、褒める教育がよいですが、
それは子供どもの要求を何でものんで甘やかすのではなく、
頑張ったら褒め言葉やごほうびをあたえ、明らかに悪意があり、
悪いことをしたときはしっかり叱るのがよいでしょう。
また、“何もしなくてもお金がもらえる”という快楽は人間をだめにするので、
子供どもに高額なお金を持たせないことも重要です。
成長して大人になり、仕事を頑張ってお金をもらうことで豊かになる、
という楽しみや生きがいを感じてほしいです。
一方で、親が子どもに絶対に言ってはいけない言葉があります。
それは、「誰のおかげで飯が食えると思っているんだ」という言葉で、
小中学生ぐらいでは精神的にも経済的にも明らかに自立できないことがわかっているのに、
言ってしまう親の方が幼稚です。
「ありがたいと思えよ」という言葉も、のぞましくありません。
お釈迦様の教えで、「恩は着るもので着せないもの」とあります。
ありがたいとは本人が心から自然にそう思って伝えるもので、
無理やり思わせたり言わせたりするものではありません。
「どんなことでも、ありがたいと相手に伝えたら、自分も相手も気持ちがいいし、
みんなが得をして、結局自分にも返ってくるものだよ」
というような、導くようなニュアンスで言伝えるといいでしょう。
・まじめにふざける
あるビジネス書の一説に、
「まじめはみじめで、仕事のパフォーマンスが下がる」と書かれており、
信ぴょう性のないグラフまで添えてありました。
私はその考え方には異論があり、
まじめを否定すると世の中に悪がはびこり混乱してしまうと思います。
それに、おそらく言葉遊びをしているだけで、
みじめである正当な根拠は述べられていませんでした。
私は「まじめはけじめ」だと考えています。
つまり、やるときはやる、休むときは休むというようなメリハリのことです。
一般的に規律正しいのがまじめとされていますが、
私の「まじめはけじめ」の中には、ふざけることもニュアンスに含まれます。
ある著名人が、「まじめにふざけよう」と言っていましたが、
私も芯がまじめで逸脱していなければ、ふざけてもいいと思います。
まじめを基本にふざけるぐらいの面白みがあると、
人生はもっと楽しくなるはずです。
・足るを知る
動物は弱肉強食で生きるために食べ、お腹いっぱいになったら、
むやみに殺して食べようとはしません。
一方で、人間とは不思議な種族で、殺し合うことも愛し合うこともでき、
欲望のために人を陥れることもあれば、弱者に慈愛の手を差しのべることもあります。
人間社会では欲は欲を生み、争いが起きて憎しみが生まれます。
そうならないために、人間も野生動物のように「足るを知る」文化に戻り、
本当に必要な物だけを取り入れた、知性のある生きかたをするべきだと思います。
・第一印象
人にはいろいろな一面があり、
どの面が最初に表に出るかで第一印象は大きく違ってきます。
もちろん、第一印象はいいに越したことはありません。
しかし温和な人でも不意に怒りをみせてしまうと、
怒りっぽい人なのかなと誤解を与え、そのあとの付き合いに影響を及ぼします。
どうしても先入観が残り、
そうではないと言い聞かせてもそういう目で見てしまうのです。
しかし、もし第一印象が悪くても、根気強く寛容な目で見てもらえれば、
本当は温和な人なんだなと誤解が解消されるときもくるでしょう。
大切なのは、人にはいろいろな一面があり、
どの面が最初に表に出るかによって第一印象が変わること、
見る側も決めつけず寛容な目で人を見ることです。
・勝負の世界
社会におけるビジネス、スポーツ界など、勝負の世界は厳しいものです。
血のにじむような努力をしても、
一番に勝ち残るのはたった一人で、その他は敗北者です。
勝負の世界では結果が全てですから、
負けてしまえばどんな言い訳も通じません。
このように厳しい世界ですが、
勝負、言い換えると競争がなければ物事は発展しません。
しかし、なかには競うのは好まず、平穏に生きたいという人もいるでしょう。
それは人それぞれの生き方でありそれも楽しいかもしれませんが、
勝負の世界に身を置くことでしか味わえない悔しさや達成感があり、
そこから得た教訓によって人が人として成長できるということではないでしょうか?
・勘違いを減らしてポジティブに
大概の人は、「勘違い」と「ポジティブ」の違いが感覚で分かっています。
双方思いこむという点では共通していますが、線引きが難しいところです。
「勘違い」は自分と相手との思い違いです。
例えば、人に頼みごとをする際、「これをやってください」と言うと、
相手が冗談で「しょうがないな」
と返した言葉を、嫌みだと解釈するようなことです。
一方、「ポジティブ」は、
悪いことがあっても自分の気持ちをいい方向にコントロールすることです。
例えば、財布を無くしてしまっても、
「このタイミングが替え時だな」
とプラスに考えることです。
私たちが勘違いを減らすためには、
早合点しないこと、
思いこみで決めつけず疑問があったらそのときに相手に尋ねることが大切です。
その上で、悪いことが起きても少し能天気なくらいだと、
ストレスフリーでしょう。
・バイタリティー
バイタリティー(vitality 生命力)の根源の一つは、好奇心です。
あれこれ興味があることを実際にやってみると、
いつの間にか身に付き、バイタリティーとなるのでしょう。
全然やったこともないのに何でもできる、
ということはあり得ないと思います。
また、欲望もバイタリティーの根源になることがあるかもしれません。
欲望は満たすものですが、満たしたら渇き、
満たしたら渇きの繰り返しで、虚しくなるだけです。
できれば、欲望ではなく好奇心をもちたいものです。
好奇心を持ち、あれこれ挑戦することで自分の価値が高まり、
さらに上を目指して追及していくことで心豊かになることでしょう。
・人を尊敬するということは
まず自分を敬愛すると、
人を心から尊敬できるようになります。
自分は心清らかであると信じ、
良いことをし続けると本当に美しい心になります。
つまり、そのような美しい心で人を見て、
その人の輝く魅力をたたえることがすなわち、人を尊敬するということでしょう。
・女らしさ
「あの人は女らしい」と何気なく口にすることがありますが、
それを私なりに掘り下げて考えてみました。
代表的な女らしさに、
「気が利く、品がある、母性が強い、おしとやか」などがあります。
それらを構成する共通点は「気丈」ということです。
「気丈」とは、言い方を変えると、芯があるという意味でもあります。
芯が無くなよなよしている人は、
余裕を持てず人に気を利かせることはできませんし、
どんなことにも動揺せず子供を守る母性も保てませんし、
余裕がないと気品に満ち溢れることも、
おしとやかに振る舞うこともできません。
実際、私の人生を振り返ってみても、
女らしい人は皆、「気丈」でした。
自身の女性像について悩み、立ち止まっている方、
芯のある気丈な生き方をすれば、自然と女性らしくなるのかもしれませんよ。
・人間の生まれ落ちる宿命
「何にしても、人間だから100%完璧にはできない」
とさじを投げて諦めるのではなく、
少しでも良くなる方法を考えて実践し、
試行錯誤すべきです。
0%とか100%とか数字を出して物事の成功を言い出すと、
身も蓋もなくなります。
もし、何でも100%できたら、
人間の成長や世界の繁栄は必要ないので、
静観・傍観するだけの神でいいということになります。
人間は人間としてこの世に生まれ落ちて、
不可能を可能にするため切磋琢磨するのが、宿命なのです。